小川清史のバイク歴(順不同、現行又は大体2年以上所有したモノ) スタートは16歳でCBM72からでした


出会いは中学生のころ、当時自転車が大好きで15段変速でランプが沢山ついた(マッチのフラッシャー自転車風のフル装備で)ドロップハンドルの自転車を毎日20kmも走っていた。 15歳で父を亡くた夏に、静岡市長沼にある父方の親戚に遊びに行った時に、ふと叔母が『ポン・ポン』乗ってみる?と言い出した。興味本位でそのポンポン=リトルホンダを田んぼのあぜ道へ持って行き、デコンプ・レバーを押しながらペダルを漕いで走り出し、レバーを離した瞬間、ププププという可愛い音と共に、漕がなくてもグイグイ加速することに驚いて目が点になるほど感動した。『オートバイはこんなにも楽しいんだ!』まさに青天の霹靂というか、電気ショックのような衝撃と、その後の私の人生が大きく変わった感じがして、それまでの自転車少年が、その日を境にバイク少年になり、明けても暮れてもバイクのことばかり考え続け、続けて母方の実家(静岡県周智郡森町)に行き城下町というところで親戚が使っていたスーパーカブC105(54cc)を田んぼのあぜ道で夏休み中ずっと乗り回しギアチェンジを覚え、さらに叔父の知人のCBM72を借りて地図に無いような山道をさんざん走り回ってクラッチとエンブレを覚えた。さらに東京モーターショーのバイクのカタログを毎日眺めたり、笹塚の村山モータースに自転車で毎日通って、トライアンフやBSA、さらにはアリエルなどを眺めていたし、狛江市の友人宅にあったナンバー無しのC200を多摩川のモトクロスコースで乗ったり、同じく世田谷区砧(当時はトヨタの教習所跡地)の白バイ訓練などもよく見に行った。

   リトルホンダP25          スーパーカブC105            C200

考えると四輪まではまだ数年有るし、バイクの免許ならもうすぐ取れる!で、生粋のバイクマニアになってしまい、高校1年で前述のCBM72を25,000円で買い、田舎の山中での練習により東京で免許を取得し、そのCBM72を東京まで自走し、(圧縮漏れでエンジンオイルがシャバシャバでガソリン臭かったので)一ヶ月後にホンダのサービスの優しいおじさんに電話で教えて貰いながら一人でモンキーと車載工具だけでエンジンを降ろしてカムチェーンを落としてヘッドを開けて、ピストンリングを自分で交換した。さらに屑やさんを回っては廃棄された不動バイクを探したり、近所の不動バイクをタダで貰って、安く直して知人に売っていた。そして買い足してバイクが増えると知人の家に置いて貰ったりして、高校二年生で3台所有しており、そのころからパーツは『ヲガワ輪業』を勝手に名乗り業販で仕入れていた。当然大学受験には失敗しバイト生活から新聞の原稿配達(プレス)を始めた。

      C110     T125     DS6


以下、メーカー別 (年代ごとではありません)

ヤマハ




          1971年  DS6(左右分割クランク) 中古6万円
高校生として4台目のYAMAHA DS6 (250cc)は毎日磨いて当時の宝物だった。当然費用は全て自分のバイトで賄った。このバイクで箱根の一国で初めて80km/hでコーナーを廻れて嬉しかった。


    1974年  RT−1(2サイクル360単気筒) CB90と交換で入手 強烈なケッチンさえ凌げば、不整爆発で強烈個性の忘れられないバイクだ! 

 
 40年ぶりの再会は悲惨 砧に住んでいた高校時代の友人に贈呈したら、彼の弟さんが軒下に40年保管。



2003年〜 SRX(3台)=3VN086・3VN092最終型・3SX


      パッソル新車 1978年
この頃、先発のHONDAロードパルをソフィア・ローレン、後発のヤマハが八千草薫のCMで爆発的な原付ブーム(バイク生産が年間600万台=今は年間60万台)になった。そして、メーカーが原付免許スクールなる物を各地で開催し、団体で試験場に送りこんで合格者は帰りのバスの中で新車を予約する!がパターンだった。当時大学生だったが、同時にメーカーのインストラクターだった私は、その免許スクールの講師を年間最大200回ぐらいこなし、ちょっと自慢だが高い合格率から結構引っ張りだこだで、15歳で父を亡くし、バイトの連続で極貧だったそれまでの生活は一転してにわかリッチになり、確定申告では勤労学生控除が23万円だった。



     ポッケ新車


1974年  TX500(DOHC2気筒) 先輩インストラクターのお下がり

当時を思い出せば、メグロが吸収され、BS,山口、ガスデンエンジンバイク、ライラック(丸正自動車)などが市場から消えて、下の3台ぐらいが憧れであったが、まさか自分が大排気量のバイクに乗れるとは夢にも思っていなかったので、この500ccはとても感動した。月〜金まで連続して箱根に通ったりしてタップリ乗り込んだ。当時はビッグバイクなどという言い方も無かった。

  CB450K0 通称クジラ              カワサキW1(スペシャルの前)          スズキT500(高速用と低速用があった)

   
  衝撃的だったCB750K0の登場    路線は違うが、トライアンフへのオマージュとしてもフィーリングは大好きだったXS−1

CB750はシリンダーヘッドがタンクよりも幅が広いだけで、当時は驚愕した。まさにナナハン・ブームの到来だ。あわせて交通死亡事故者数も15,000人台とピークで交通戦争のまっただ中だった。また、尊敬する先輩が750で事故を起こしたときに、人間の制御できるパワーではないと巷では囁かれていた。カタログ上68馬力、最高速200km/h、0〜400m 12.4秒 は今となってはたいしたことないけど。

それとXS−1は路線が違うのでCBのライバルではなかったが、独特のスリムさが大好きで、後日開発担当者と会う機会があったが、エキパイの焼け対策で3重にしたり等の苦労話を聞いた。でも振動は凄かったなあ。


以降は契約ライダーにてメーカー提供車両 

 TX750(新車をメーカーから5万円で提供され、2台乗り継ぐ)対向ピストンのWディスクに350のワイドタイヤでブレーキは利いた。XS−1の振動に懲りたのか、バランサーをWで付けて(2個目は偶力を消す)結構乗りやすかった。コノ車両で、関東各地の大型二輪講習会に出向いた。1977年頃の話しだ。


 GX750(3気筒シャフトドライブ)新車メーカー貸与  ホイールスピンが楽しかった。実車はマイナー後のキャストだった。


XJ750D(フル・コンピューター)新車メーカー貸与 インジェクションのレスポンスはイマイチだったが、平均燃費がメーターに出たのは驚いた。


XJ750E 新車  これだけは、何だかんだで30万円でメーカーに新車を買わされ10年程度乗った。この頃のメーカー担当者には(寄付/寸志で)結構食いものにされた。


FZX750(フルパワー改) 新車 メーカー貸与  スクールでのフロントブレーキのデモンストレーションが懐かしい。


TDM850 試乗車落ち メーカー貸与


XJR1200(1台)、XJR1300(2台) 11年間で計3台を乗り継いだが、ツキの良い空冷エンジンにゾッコンだった。


 2001年 YZF−R1 新車 これも自分で買った。元気な内に乗っておいて良かった。


ホンダ

  
1970年に上野で新古車を4万円で購入 CS90(ブルメタ) 初めての新車であり、ガソリンが45円/Lだった頃だが6Lちょっとで浜松まで行けた。さらに毎週のように国道246を東京から三島、厚木、御殿場などへツーリングに出掛けた。


1972年 CB90 不動車をタダで貰い、フル・レストアした。当時の親友が親からRX350の新車を買って貰っているのを見て、全然羨ましいとは思わず、素直にこの格差を受け入れた上で、この時から『ヒトを羨むのは止めよう』を決意し『自分で頑張ろう!』を決意したことはその後の人生に影響は大きかったかも。


MY FIRST BIKE  1970年に周智郡森町(母の実家)で25,000円で購入 CBM72TypeU
    *購入前から山の中を無免許で散々乗り回し練習した。


 1973年〜購入  CB250国内用(中古25,000円)、CB250エクスポート2台 (2万円と2千円の廃棄バイク)

2001トリコ・モンキー

スズキ

  
 1971年  T−125 1型 
上野の中古バイクを定期的に漁っていたが、オートバイ生産のメッカは浜松なので、中古も豊富かと思い、トーハツのLD3かランペットCa2またはベビーライラックでも見つけようと浜松まで出掛け、このT125を見つけ15,000円で購入。125とは思えないような貫禄があった。

アドレスV100(CE13A)

アドレス125(2005年)


カワサキ 

     1972年 新車購入  90SS(GA2A) 
ブレーキはトロかったが、10.5馬力ロータリーバルブは軽快で早かった。大学受験のために『バイクに乗らない宣言』をして、この車両を分解して2階に運んで飾って眺めていたら、受験に失敗した。

ハーレー 
1990FXRS ローライダーコンバーチブル、      
1996FLSTF ファットボーイ、           
1999FX−D ダイナ・ローライダー(ツインカム88改)
2007XL1200L(low)ターボ付           


VESPA  
2011LX150ie


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